CASE01:雨音の交差点
激しい雨音にかき消された悲鳴。
「ただの交通事故」で片付けられようとした夜に、九重聡美はひとつの違和感を拾い上げる。
本編
雨粒がフロントガラスを叩くリズムが、無線の声を歪ませて聞こえた。
「こちら一一〇番通報、駅前スクランブル交差点で人身事故。意識なし。加害車両、逃走」
ハンドルを握る相棒が小さく舌打ちする。
「よりによってこんな土砂降りの中かよ……。九重さん、どう見る?」
「行ってから考えるわ」
後部座席のレインコートを引き寄せながら、九重聡美は短く答えた。
大宮駅前──ネオンとテールランプが雨にぼやけ、夜なのに視界は白く霞んでいる。
パトカーの赤色灯だけが、交差点の中央を現実の色に引き戻していた。
白線の上に、男が仰向けに倒れている。ビニール傘が少し離れた場所でひっくり返り、中央分離帯の縁石には、黒いブレーキ痕が斜めに刻まれていた。
「男性、二十代後半。搬送後、病院で死亡確認」と救急隊員。
「目撃者は?」と九重。
「通行人が何人か。皆、同じことを言ってます。信号無視で飛び出した男性を車が避けきれず……と」
相棒が肩をすくめた。
「よくあるパターンだな。向こうは逃げてるし、ひき逃げ致死にはなるけど、原因は被害者の不注意ってやつだ」
「……そうかしら」
九重は、倒れた男の足元に視線を落とした。
片方だけ、靴紐がきっちり二重結びされている。もう片方は、買ったばかりのように真っ白で、紐に泥ひとつついていない。
雨の中を走ってきたにしては、あまりにきれいすぎた。
「九重さん?」
「傘の位置が変ね」
傘は身体から三メートルほど離れたところで転がっている。持ち手の向きからすると、男は交差点の手前で広げていたはずだ。
「走って飛び出したなら、こんなに離れない。……誰かに引かれたか、押されたか」
聡美のつぶやきは、雨音に溶けていった。
翌朝。捜査一課の会議室は、湿ったコーヒーの匂いで満ちていた。
鑑識から上がった報告書には、被害者の名前が記されている。
通勤途中、駅前のスクランブル交差点で事故に遭い死亡──それがフォーマット通りの説明だった。
「被害者のポケットからメモが出てきました」と若い刑事が言った。
A7サイズの濡れた紙切れに、ボールペンで走り書きされた文字。
『今夜二十二時、大宮駅前の交差点で待ち合わせ。
信号が青になったら、そのまま渡ってきて。──K』
「ラブレターにしちゃ味気ねえな」
相棒が笑いを取ろうとして、誰にも相手にされなかった。
九重はメモをじっと見つめる。
「“信号が青になったら”って、わざわざ書くかしら。普通、“改札出て右”とか、“東口のロータリー”とかよね」
「つまり?」
「青になった瞬間に、そこにいてほしかった人間がいるってこと」
机の上の資料に、昨夜の現場写真が添えられている。
交差点を斜めに横切るように残されたブレーキ痕。
その延長線上には、タクシープールに面した一方通行の狭い路地があった。
「防犯カメラはどうお?」
「雨で画質が悪いですが……」と、別の刑事がノートPCを差し出す。
モザイクのような映像の中、ヘッドライトの塊が交差点に突っ込み、
何かを弾いたあと、そのまま路地に消えていく。
一瞬、ナンバープレートの下半分だけがフレームに映った。
『・35』──それだけ。
「これじゃ範囲が広すぎる」
ため息が上がる中で、九重だけが別のモニターを指さした。
「こっちのカメラ、音声付き?」
「駅ビルの出入口のですか? 環境音しか入りませんけど」
映像には、交差点の端を歩く人影が映っている。その中に、ビニール傘を差した藤崎と思しき男がいた。
信号が青に変わる直前、彼は一度立ち止まり、どこかを振り返る。
次の瞬間、マイクが小さく拾った。
「──今だ、行け」
低い男の声。雨音に紛れているが、確かにそこにあった。
「誰だ……?」
会議室の空気が変わる。
現場周辺の聞き込みで、九重はビル影の公衆電話ボックスに目を留めた。
「昨日の夜、この電話使った人を見てませんか?」
駅前でチラシを配っていたコンタクトレンズ店の店員が首をかしげる。
「ああ……黒っぽいコート着た男の人なら。ずっと電話してて、雨なのに傘さしてなかったから覚えてます」
「時間は?」
「たしか、十時前後だったと思います。」
藤崎の携帯電話の通話履歴を洗うと、直近の着信に「公衆電話」と表示された番号が三件並んでいた。
すべて事故の十五分以内。
「待ち合わせに遅れさせないつもりなら、一回でいいはずよね」
「しつこい彼女って線は?」と相棒。
「だったら名前を書く。“K”なんて記号で済ませない」
通話記録と防犯カメラを突き合わせていくうちに、一人の人物が浮かび上がった。
藤崎の勤務先の上司、課長・神谷。会社の出入り口のカメラに、黒いコート姿で映っている。
藤崎の退社時間と、駅前の公衆電話ボックスに立つ男の背格好が重なる。
「神谷課長、昨夜はどちらに?」
事情聴取の席で問うと、神谷は眉をひそめた。
「残業だよ。うちは今、納期前でね。彼も遅くまで残っていたはずだ」
「藤崎さんは、二十一時半に退社しています。タイムカードと、ビルの出入口のカメラに残ってます」
九重が資料を示すと、神谷の視線が一瞬だけ泳いだ。
「……そのあと事故に遭ったと聞いた。ショックで、よく覚えてなくてね」
「駅前の公衆電話を使った記憶も?」
「使ってないと言ったら、信じてもらえるのかね」
乾いた笑いが会議室に落ちた。
九重は、机の上にもう一枚の写真を置いた。
それは、交差点を斜めに突っ切る車のナンバープレートを、鑑識が画像処理したものだった。
『大宮 300 さ ・・35』
そして、同じ数字を持つ社用車の登録証明書。
「この車の管理責任者は、あなただと伺っています」
「……社用車は、社員なら誰でも使える」
「昨夜、鍵を持ち出したのは、神谷課長だけです」
相棒が淡々と告げた。
神谷の肩が、わずかに落ちる。
「あいつが……藤崎が、会社を訴えると言い出したんだ」
「サービス残業と、データ改ざんの強要について、でしょう」
九重は、藤崎が社内のコンプライアンス窓口に送っていたメールのコピーを広げた。
「だからといって、殺していい理由にはならないわ」
「違う! ただ話すつもりだった。あの交差点で会って、説得して……」
神谷は乱暴に額をこする。
「信号が青になったら渡ってこい、そう言えば、必ず真ん中で俺と向き合うと思った。
なのに、あいつは一歩、余計に前へ出た。車が来てるのが見えたのに……」
「あなたは、その瞬間、何と言いました?」
九重の問いに、男は顔を上げた。雨音のような沈黙のあと、小さな声でつぶやく。
「……今だ、行け」
会議室に、昨夜のマイクが拾った言葉が重なった。
「それは、彼を守る言葉じゃない」
九重の声は静かだった。
「あなた自身が、早く終わらせたいと願った結果よ」
「違う、俺は――」
抵抗の言葉は、手錠の音に遮られた。
取調べの後、九重はひとりで駅前の交差点に立った。
昨夜ほどではないが、まだ細かい雨が降り続いている。
青信号の人の群れが、彼女の身体を避けて流れていった。
「あのとき、あなたは何を見てたのかしら」
藤崎亮の名前が刻まれた現場標識を見つめながら、九重は小さくつぶやく。
車か、上司か、それとも……自分の行き先か。
雨音に紛れて、交差点のざわめきが遠のいていく。
正義なんて、いつだって後付けだ──それでも、誰かが答え合わせをしなければ、この交差点はただの「事故現場」のままだ。
九重聡美はコートの襟を立て、信号が赤に変わるのを待ってから、ゆっくりと横断歩道を渡り始めた。