コーヒーはブラックで
捜査会議が始まる少し前。
湿った書類と蛍光灯の白さの中で、湯気だけが、ささやかな癒やしだった。
本編
朝九時前の捜査一課フロアは、まだエンジンがかかりきっていないエアコンの音と、コピー機のかすかな駆動音だけが響いていた。
会議室の前の小さな給湯スペースで、九重聡美は紙コップを片手にコーヒーマシンの前に立っている。
タンクから落ちる黒い雫を眺めながら、彼女は無言で待った。
「……あ、九重さん、おはようございます」
後ろから、おずおずとした声がした。振り返ると、ファイルを抱えた真壁悠人が立っていた。
「おはよう」
「きょ、今日もブラックですか?」
「ええ」
聡美は短く答えると、満たされた紙コップを持ち上げた。
真壁は隣のボタンをおそるおそる押しながら、カップに砂糖スティックを二本、ミルクポーションを一つ並べている。
「そんなに入れて、コーヒーの味、残るの?」
聡美が問いかけると、真壁は苦笑いを浮かべた。
「……苦いの、ちょっと苦手で。でも徹夜明けだと、なんかこう、甘くないとやってられないっていうか」
「じゃあ、最初からココアにすればいいのに」
淡々とした返しに、真壁は「ですよね」と肩を落とした。
そこへ、エレベーターの方から軽い足音が近づいてくる。
「おはよー、聡美。……って、あ、コーヒータイム?」
明るい声とともに、白鳥未来が顔を出した。他班に所属する彼女も、朝の会議前にはよくここへ紛れ込んでくる。
「未来、今日はこっちの班も一緒に?」
「うん、合同だって。本部長の“お達し”つき。あーやだやだ、朝からお偉方と顔合わせなんて」
そう言いつつ、未来は迷いなくマシンの「カフェラテ」のボタンを押し、砂糖を一袋だけ開けた。
「九重さんは、いつもブラックですよね」
真壁が恐る恐る水を向けると、未来が横から食いついた。
「そうそう。“捜査一課の鉄仮面”は、コーヒーも鉄みたいに苦いのしか飲まないって噂」
「誰がそんなことを」
「廊下の向こうの噂好きな人たち」
未来が肩をすくめると、聡美は小さくため息をついた。
「別に、強がりでブラックにしてるわけじゃないわ」
「じゃあ、なんでです?」と真壁。
聡美は少しだけ考えるように視線を落とし、湯気の向こうを見た。
コーヒーの表面に、蛍光灯の光が白く揺れている。
「……味をごまかしたくないだけよ」
「味?」
「苦いなら苦い、薄いなら薄いって、はっきりわかった方がいい。
何を飲んでるのか分からないものを、毎朝身体に流し込むのは、性に合わないの」
真壁は自分のカップを見下ろした。
コーヒーというより、もうほとんど甘いミルクに近い色をしている。
「……耳が痛いですね」
「別に、あなたに説教してるわけじゃないわ」
聡美はわずかに口元をゆるめた。
「事件も同じよ。
最初から“飲みやすく”整えられた話だけ聞いてると、本当に苦いところを飲み込まないまま終わる」
「あー、それ分かる」
未来がストローをくわえたまま頷いた。
「上に上がるほど、カフェラテみたいな報告書しか回ってこないもんね。下で誰かがブラック飲んでるの、忘れてる」
真壁は二人の会話を聞きながら、砂糖スティックを一本、そっと机に戻した。
「じゃあ、今日はちょっとだけブラック寄りで……」
「無理して真似することはないけど」
そう言いつつ、聡美は戻された砂糖を横目で見て、わずかに頷いた。
と、そのとき。会議室のドアが少し開き、中から宮内班長が顔を出した。
「おーい、コーヒー組。そろそろ席につけ。冷めたらますます苦くなるぞ」
「はいはい、今行きます」
未来がラテを片手にひょいと手を振る。
聡美は紙コップを持ち直し、一口だけ口をつけた。
熱さと苦みが舌を刺し、喉を落ちて、胃のあたりに落ち着く。
「どうですか、今日のは」
真壁の問いに、聡美は短く答える。
「……ちょうどいいわ。コーヒーはブラックで」
そう言って、彼女は会議室のドアを押し開けた。
その背中を追うように、甘さの残るコーヒーと、ラテの湯気が続いていく。