第4話 雨の張り込み
倉庫街。街灯とテールランプだけが色を持つ夜。
雨音に紛れて動く“影”を追うために、九重班はそれぞれの持ち場で息をひそめる。
本編
夜になって、予報通り雨が降り出した。
ぽつり、ぽつりと落ちていた粒は、やがて一定のリズムを持った音へと変わり、倉庫街のトタン屋根を叩き続ける。
大宮市内の外れにあるその一角は、昼でも人通りが少ない場所だ。
夜ともなれば、行き交う車はトラックと一部のタクシーくらい。
街灯に照らされたアスファルトの上を、雨水だけが確実に流れている。
その通りに面した小さな路地の手前に、一台の捜査車両が停まっていた。
フロントガラスに落ちる雨粒をワイパーが掃き、車内には無線のノイズとキーボードの音が響く。
「……映像、こっちも入りました」
ノートパソコンにイヤホンを繋ぎながら、真壁が小さく報告する。
「交差点のカメラと、コンビニ前、それから倉庫の出入口付近。三方向、死角は最小限のはずです」
「頼りにしてるぞ、裏方のエース」
運転席で双眼鏡を構えた佐野が、缶コーヒーを片手に口元だけで笑った。
「張り込みってのは地味な仕事だが、案外こういう時に大当たり引くんだよ」
「……大当たり、ですか」
真壁は乾いた笑いをこぼし、モニターに視線を戻した。
雨に滲む画面の向こうで、倉庫街は、まだ何も起きていないふりをして眠っている。
一方その頃、倉庫街の少し離れた場所では、別の車が停まっていた。
助手席の窓を少しだけ開け、そこから煙草の煙が細く流れ出ている。
「……雨の日の張り込みって、やっぱり嫌い」
未来がハンドルにもたれかかりながら、フロントガラスを伝う水滴を指先でなぞった。
「視界悪いし、髪うねるし、靴もびしょびしょになるし」
「文句を言いながらも、ちゃんと出てきてるんだから、偉いわ」
隣の席で双眼鏡を覗いていた九重が、淡々と答える。
「……それに、あなたの聞き込みがなければ、ここまで絞れなかった」
「ん、今の、褒められてる?」
「事実を述べただけ」
未来が苦笑する。
「はいはい、“事実”ね」
ワイパーの動きに合わせて、視界の中から雨粒が消えては、すぐに新しい水滴が現れる。
その向こうで、倉庫の一つに取り付けられた白いシャッターが、街灯の光を鈍く跳ね返していた。
「……九重」
無線から、宮内の低い声が聞こえた。
「こちら本部。交通規制と近隣パトロールは予定通り開始済みだ。何か動きはあるか?」
「まだ、何も」
九重は短く答える。
「ただ、雨の匂いが少し……変わってきました」
「変わった?」
「人が動く前って、空気が変わるのよ。張り込みをしてると、なんとなく分かる」
宮内は、少しだけ間を置いてから答えた。
「……お前の“なんとなく”は、だいたい当たるからな。注意して見ておけ」
午後十時を回った頃、倉庫街の奥から一台のトラックが現れた。
ヘッドライトとテールランプが、雨のベール越しに赤と白の筋を描く。
「来た」
佐野が姿勢を正し、真壁もモニターを拡大する。
「ナンバー確認します……」
タクシーでも配送でもない、見慣れない業者名。
「この事業者、今までの聞き込みには出てきていませんでした」
「よし、ナンバー控えとけ。帰ったら真っ先に当たる」
トラックは減速し、例の白いシャッターの前で停まった。
運転席から降りてきた男が、傘も差さずに鍵を回す。
「……雨宿りにしちゃ、ずいぶん重い荷物だな」
佐野のつぶやきに、真壁がごくりと喉を鳴らした。
九重と未来のいる車からも、その様子は見えていた。
「あれが、“雨の夜にだけ動くトラック”ってわけね」
未来が双眼鏡を持ちながら言う。
「近づく?」
「まだ。今は、誰が出入りしているのかを見る」
シャッターが半分ほど持ち上がり、倉庫の中からもう一人、男が姿を現した。
フード付きのパーカー。顔の半分以上を影が覆っている。
「……あいつ」
九重の声が少しだけ低くなる。
「昨夜の路地にいた“影”と、体格が似てる」
「同一人物、ってこと?」
「決めつけるには早い。でも、偶然とも言いづらい」
男はトラックの荷台から箱をいくつか降ろし、倉庫の中に運び込んでいく。
中身は見えない。だが、どの箱も持ち上げ方が慎重すぎる。
「あの扱い方……」
九重が目を細めた。
「壊れ物か、爆発物か、どちらかね」
「さらっと物騒なこと言うよね、聡美」
未来の苦笑も、すぐに真顔へと戻った。
作業が一段落したのか、フードの男が道路側を振り返った。
その視線が、一瞬だけ張り込み中の車の方をかすめる。
「っ……!」
未来が思わず身を引く。
「見られた?」
「分からない。でも、何かに気付いた顔だった」
無線が小さく鳴った。
「こちら宮内。動きは?」
「トラック一台、荷物の搬入。内部に一名、出入口に一名。顔までは確認できませんが……」
九重は一拍置いてから続ける。
「昨夜の路地にいた男と、同じ“匂い”がします」
「追い込むには、まだ材料不足だな」
宮内の声は慎重だった。
「現時点では、違法性を直接立証できる材料がない。無理に踏み込めば、こっちが悪者にされかねん」
「分かっています」
九重は短く答え、双眼鏡を下ろした。
「今夜は、“ここに影がいる”という事実だけ、確かめればいい」
その時、倉庫の奥で小さな光が瞬いた。
誰かがスマートフォンを操作しているような、弱い光だ。
真壁がモニター越しにそれを捉え、息を呑む。
「……九重さん。倉庫の中で、誰かがどこかに通信してます」
「どこか、って?」
「まだ特定できません。でも、位置情報か画像か……何かを送ってる動きです」
雨音が一段と強くなった。
倉庫街のどこかで、見えない線が一本、静かにつながる音がした気がした。
「……やっぱりこの街は、何かを隠してる」
九重はそうつぶやき、雨で滲んだ倉庫の輪郭を見つめ続けた。
未解決の街。その“張り込みの夜”は、まだ序章にすぎない。