第1話 曇天の証言者
暴行事件の目撃者として名乗り出たのは、信頼性が低いとされるホームレスの老人だった。
九重は彼だけが語った“押された”という証言を手がかりに、被害者が隠していた真相と犯人へと辿り着く。
本編
雨上がりの朝、捜査一課の会議室には妙な空気が漂っていた。
テーブルの中央には、昨夜起きた暴行致傷事件の資料が積まれている。
被害者は会社員・大石弘樹、三十二歳。帰宅途中に駅前の高架下で殴打され、頭部の裂傷で入院中だ。
「防犯カメラは死角。通行人も少ない。被害者本人も“後ろから殴られた”の一点張りで犯人像がない」
相棒の佐野が書類をめくりながら言う。
そんな中、刑事部長が無表情で付け加えた。
「……ちなみに、“目撃者”を名乗る人物がいるらしい」
その言葉に、室内の温度がわずかに下がった。
「ホームレスの老人だ。信頼できるかは疑わしい。酔っていた可能性もある」
「ただの売名だろ」「暇人だよ」と他の刑事たちが笑いを漏らす。
九重聡美は眉一つ動かさず、資料から視線を上げた。
「その目撃者、どこに?」
部長が意外そうに目を細める。
「……駅南口の段ボールの寝床だ。話を聞きたければ行け」
「行くわ」
聡美は即答した。
周囲の空気が「またか」というようにざわめいた。
彼女が“少数派の声”を拾う姿勢を、同僚たちは時に煙たがる。
だが聡美は構わなかった。
──嘘をつく理由のない人間の言葉ほど、真実に近いことがある。
南口のロータリーに着いた九重は、段ボールの山の前にしゃがみこむ。
薄汚れたコートの老人が、缶コーヒーを手に座っていた。白髪まじりの髭が風に揺れる。
「昨日の夜の暴行事件、見たって言ってたわよね」
老人は目を細め、ゆっくりと頷いた。
「……見たとも。あの男は“押された”んだよ」
「押された?」 「自分から転んだんじゃない。誰かが、後ろから“突き飛ばした”」
聡美は老人の瞳をじっと見た。濁っているようで、その奥には確かな焦点がある。
「犯人の顔、見たの?」
老人は震える手で空中をなぞるように描いた。
「黒いフードの男だ。細身で背が高い。足を引きずってた。右足、かな」
右足──。
聡美の脳裏に、以前会議で聞いた名前が浮かぶ。
被害者・大石とトラブルのあった元同僚、三崎周平。
退職後、交通事故で右足を負傷していた男だ。
だが証言者が“ホームレスの老人”というだけで、誰も取り合わないだろう。
組織の空気は、すでに「大石の自作自演説」へ傾きつつある。
それでも、聡美は立ち上がった。
「教えてくれてありがとう。あなたの証言、無視しないわ」
老人は少し驚いたように目を見開いた。
「信じるのかい、ワシの話を……?」
「嘘をついてる目じゃないもの。」
聡美は微かに微笑んだ。
その瞬間、老人の硬い表情がゆるみ、深い皺が温かく折れ曲がった。
──その証言こそが、この事件の“灰色”を照らす光になる。
彼女はそう確信していた。