第1話 雨の夜に
雨のにおいと、遠くで鳴る救急車のサイレン。
九重聡美にとって「未解決」という言葉は、いまだ胸の奥で雨音のように響き続けている。
本編
その夜、街は冷たい雨に沈んでいた。アスファルトの上を流れる水は、街灯を滲ませ、輪郭のすべてを曖昧にしている。
「……まただ」
レインコートに身を包んだ捜査員が、黄色い規制線の向こうでつぶやいた。
路地裏の奥で、救急隊員がストレッチャーに被害者を載せている。暴行を受け、意識は戻らず、すぐ搬送された。
駆けつけた九重聡美は、濡れた前髪を払うこともせず、現場を見つめていた。
「被害者は?」
「身元不明。所持品なしです」
「目撃者は?」
「……いません。いつもの通りです」
“いつもの通り”という言葉に、聡美は小さく眉を寄せた。
この一帯では、雨が降る夜に限って、似たような事件が繰り返されていた。
暴行、転落、失踪――いずれも決め手を欠き、未解決のまま積み上がっていく。
聡美は周囲を照らす投光器の光に目を細める。濡れた路面。散らばったガラス片。
そして、ビルの隙間に落ちていた、小さな銀色のボタン。
「……これ」
鑑識に手渡すと、相棒の佐野が覗き込んだ。
「スーツのボタンか? 犯人のか、被害者のか?」
聡美は首を振る。
「形が違う。既製品じゃないわ。……オーダーね」
雨の音が強くなる。ビル壁を叩く雨粒が、まるで何かを隠そうとしているように感じられた。
「九重さん、無理に関連づけるのは――」
「無理じゃない。“似ている”のよ。手口は毎回違うのに、残る違和感はいつも同じ」
佐野がため息をついた。
「また“違和感”か。捜査一課じゃ、あんまり良い顔されないやつだぞ」
聡美は答えず、規制線の外に視線を向けた。
避難用通路の脇に、傘も差さず立ち尽くしている影がある。フードを深くかぶった男だ。
「あなた、何を見ていたの?」
近づくと、男は一瞬びくつき、視線をそらした。
「……別に。ただ、雨宿りを」
「この場所で?」
聡美の問いに、男の喉が上下する。雨より冷たい沈黙が流れた瞬間――
彼は逃げるように路地へと消えた。
「おい! 九重、追うぞ!」
佐野が声を上げたが、聡美は動かない。
「……いいわ。今は」
ただ静かに、その背中が消えていった暗がりを見つめ続けた。
翌朝。捜査一課の会議室では、宮内班長が資料を並べていた。
「昨夜の件も含めて、ここ半年で“雨の夜”に発生した未解決事件は七件。……増えてきている」
壁面のホワイトボードに貼られた地図には、事件地点を示す赤いマーカーが散らばっている。
いずれも徒歩圏内。しかし手口はバラバラで、共通点は乏しい。
「犯人像が見えないのが気味悪いですね」と未来。
「偶然じゃ、片付かないわ」と聡美。
「根拠は?」
宮内が尋ねると、聡美は机の上の透明袋を示した。
「現場で拾ったボタン。三件前の事件現場に残っていたものと“形がほぼ一致”してる」
佐野が苦笑する。
「ほぼってところが九重さんらしいよな」
「でも、無視できないわ。あの路地に立っていた男の態度も」
未来が眉をひそめる。
「追わなかったの? 聡美なら――」
「追えば逃げられる。今は、逃げ場のほうを探したほうが早い」
会議室に、静かなざわめきが走る。
宮内は腕を組みながら、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。九重、お前の“違和感”を一度追わせてみる。どう動く?」
聡美は地図を見つめ、雨が流れ落ちるような声でつぶやいた。
「この街は、誰かが嘘をついてる。何人も巻き込んで」
「昨夜の事件も、その嘘の一部にすぎない。もっと大きな“何か”が動いてる」
その言葉に、未来も佐野も動きを止めた。
宮内だけが、小さく息を吐き、部下たちを見渡した。
「……ならば、答えを探しに行くしかないな」
会議が終わったあと、聡美は窓の外に目を向けた。
ガラスに細かい雨粒が当たり、街は灰色にかすんでいる。
「……また雨ね」
聡美は小さくつぶやき、コートを手に取った。
未解決の街――その始まりは、いつも雨の夜だった。