第2話 捜査一課の朝
雨が上がった朝。 捜査一課には、それぞれの“いつも通り”がある。 ただし、九重班にとっての“いつも通り”は、静かさの中に不穏さを孕んでいた。
本編
朝8時。大宮市警察本部の捜査一課フロアは、コーヒーの香りとコピー機の音でゆっくりと目を覚ましつつあった。
机に資料を広げる者、新聞を斜め読みする者、昨夜の聞き込みのメモを整理する者。
それぞれの"戦場"の準備が静かに始まっている。
佐野隆司は、すでに湯気の立つマグカップを片手に、デスクへ腰を下ろした。
「おはようさん。今日は晴れたな」
向かいの席で、メガネをかけた真壁が軽く会釈を返した。
「おはようございます。データ整理、あと30分で終わります」
彼のパソコンには、昨夜の未解決事件群の地図とタイムラインが複雑に並んでいる。
カーソルがせわしなく動き、複数の防犯カメラ映像が同時に再生されていた。
「真壁、お前さ……朝からそんなに飛ばして、倒れんなよ?」
「だ、大丈夫です! 昨日のボタンのこと、気になってしまって……」
佐野は苦笑した。九重の“違和感”に触れた若手は、だいたいこうなる。
静かに、しかし確実に引っ張られていく。
その頃、エレベーターが開き、軽やかな足音がフロアへ響く。
「おはよう、みんな!」
白鳥未来だ。ポニーテールを揺らしながら、持参したドーナツの箱を掲げた。
「朝から糖分補給、大事だよ? 佐野さん、コーヒーと合わせてどうぞ」
「ありがとな。お、真壁、顔が死んでるぞ。砂糖摂っとけ」
「し、死んでません!」
未来は真壁のデスクを覗き込む。
「映像、全部チェックしたの? 一晩でこれ全部?」
「い、いえ……自動で抽出を……その、まだ粗いです……」
明るい未来と、慎重な真壁の会話は、班の朝を柔らかくする。
そんな空気の中、ひときわ静かに歩いてくる人物がいた。
九重聡美だ。
手に小さな紙袋を提げ、濡れた髪をまとめ、無表情のまま席につく。
「……おはよう」
その声は小さいが、班全体が自然と姿勢を正す。
九重には、周囲の空気を一瞬で変える静かな力がある。
未来が軽やかに声をかける。
「聡美、パン持ってきたよ。半分こしよ?」
「……あとで」
短い返事に、未来が肩をすくめる。
「いつも通りだねー」
真壁が恐る恐る報告した。
「九重さん……昨夜のボタンなんですが、似たデザインが三年前の事件資料に――」
言い終える前に、九重の視線がすっと彼の画面へ向く。
「……見せて」
真壁の手が震える。
しかし九重は淡々としていた。
「ありがとう。あなたの作業は早いし、正確」
「っ……! は、はいっ……!」
佐野が小声で未来に言う。
「褒められて固まってるぞ、あいつ」
「かわいいねぇ真壁くん」
そして――。
班長・宮内が分厚いファイルを抱えてフロアへ入ってくると、場の空気がひとつ締まった。
「おはよう。全員そろってるな」
穏やかな声に、班員たちが集まる。
「昨夜の事件だが……また、増えた。雨の夜の未解決が八件目になる」
壁に貼られた地図の赤いマーカーは、じわりと密度を増している。
真壁が小さく息をのむ。
「……関連性が、強まってきています」
「九重」
宮内が彼女へ視線を向ける。
「お前の“違和感”、聞こう」
九重は静かに、昨日拾った銀色のボタンを示した。
「犯人は、まだ終わらせる気がない」
「昨夜の現場は、《始まり》ではない。……《続いている》の」
捜査一課の朝。
その静けさの裏で、街のどこかに潜む気配がゆっくりと形を取り始めていた。